以下は、昭和54年(本校開校四年)に広報誌「たまきはる」創刊号で初代学校長鬼頭有一先生が記された文章です。
われ等の歴史 巻頭言
ここに、これまでの四年の校史を編み、あわせて第五年次以向、わが校将来の発展の礎といたします。
わたくしは中国の歴史書を読んでいますが、中国ほど歴朝の歴史を懇切鄭寧に記録するところは無いと思います。歴史書を読むたびに、いつでも歴史とは何かということを考えます。歴史はたしかに過去のことを書きます。出来るだけ客観的に正確に書き残します。それはいうまでもなく過去に対する尊敬の念がなくてはできない仕事です。しかし、過去に対する尊敬とは何でしょう。これを現実のわが校の歴史を残すという仕事に置きかえます。なんといっても毎日の仕事を鄭寧に記録として残さねばなりません。毎日の仕事を鄭寧に残すということは、じつは今日一日が充実しているということです。今日一日を鋭い目で見つめるということです。自分自身についていえば、自己を愛してこそ出来ることであり、あるいは学校を愛してこそ出来る仕事です。一日を愛する、十日を愛する、一ヶ月を愛する、そして一年を愛する。この積み重ねこそが充実した歴史を作ることでしょう。すなわち歴史を作るということは自分自身を作ることにほかならない。
しかし、さらに思うのです。今日を愛するのは明日を愛するからです。より良き明日のために。ここに歴史、すくなくともわが校の歴史を編む理由があります。
わが校創立以来四年です。先生方も諸君も父兄各位も、それに地域の方も、それぞれわが校の充実発展を願い努力して来ました。
教育は一朝一夕に効果をあらわすものではありません。けれども着実な今日なくして、より良き明日がある筈はありません。懇切鄭寧に毎日の自己を注視しましょう。高い理想を抱きつつ、自己に沈潜し自己を磨きましょう。そして第五年次に歩を進めましょう。
われ等の歴史を刻んだこの「たまきはる」が、より良き明日への糧であることを祈ります。
創立前後のこと たまきはるわが命
校歌「たまきはるわが命」を作った時の気持を書いてみたいと思います。
学校というものは、公の立場でいえば教育基本法がありますし、もっと近くには学校教育法があります。それから実際に学校が作られるという点からいえば県、教育委員会があります。地域社会の要望もあります。そして具体的な建設がはじまるのです。設計し、業者がダンプから土砂を運ぶという汗を流す仕事がはじまる。
いまでも昨日のことのように思い出すのですが、昭和49年の盛夏7月、ガラ土を均らした上に大きなテントが張られ、地鎮祭が行われました。県や市からの参加者も加えて80名を越す方が集まられました。暑いテントの中で汗を流して鍬入れ式を見守ったのです。わたくしも施主の一人として招かれ、あいさつもいたしました。
「八百万の神たちが、いまこの場にお集まりになって、工事の安全と学校の発展を助けられる……」といったことを話したのであるが、話ながらテントのすき間はるか遠く、木曽川の桜堤の梢越しにアルプスの連峰が輝いて見えました。
そして夏が過ぎ秋も木の葉が散るころになりました。わたくしの仕事は各教科のための時間を考えることから、ドアーのつけ方に注文をつけることまで雑多でした。そんな中で、この新しい学校をどんな形にするか、その精神は何かということを考えました。そして校歌の中でこれを唱いたいと思いました。学校造りの中でおのずから情熱のようなものが湧いてきて、まだ見ない生徒諸君を想いつつ校歌が生れてきました。
御岳という山は尾張に住むものがひとしく仰ぐ親しい山岳です。山脈という言葉があります。山が高く低く連っています。これは何万年もの間に山岳が崩れて柔かい線を作っています。しかし御岳はそういう山脈の中にあって独立した偉容を示します。麓のひろがりとひときはきびしい山容は人に何かを教えるようです。ことばでいえば自律といえるかも知れませんが、もっと宗教的な荘厳なものを示しているようです。
尾張平野には池がありません。山村、丘陵地帯にいけばどこにでも池がありますのに、尾張平野にはないのです。それは木曽川の水が尾張平野の地下を潤しているから、掘ればどこからでも水が出る。溜池を作る必要がない。しかも木曽の奔流は滔々と流れてやまない。人もまたかくのごとくでありたい。
夜空。学問するものは誰でも星の輝く空を感動をもって仰ぐ。中天を仰いでカシオペアから北極星を発見することもありますが、東洋では北斗七星と北辰と一つの関連として尊重しております。これは方向を示すものでありますが、同時に人生の方向を示すかのようです。星座は浩浩と音をたてて連行しているようです。わたくしもまたこの天地と一体となる。こういう実感がここにはあります。
青春、高校時代とは何か。それは希望の時代です。人生というものが希望に満ちて見えます。学問に、芸術に、体育に。
斉藤茂吉の「あらたま」に歌があります。
あかあかと一本の道とほりたり
たまきはるわが命なりけり
この一本の道はわが生命、情熱を傾けるところです。一宮北高に学ぶわれ等みなここに一本の道を見出し、そこに「たまきはる」わが命の源泉を汲む。わが生命を傾けることのできる学校、かえりみて悔なき学校、そういう学校に学びたい。そういう学校にしたい。これが校歌の意味であります。
正誼明道(せいぎめいどう)
わが校の正門中央に「正誼明道」碑が建っております。これは昭和50年7月に、安岡正篤先生にお願いして書いていただいたものです。
さて、中国の歴史を見ますと、紀元前221〜210年、秦の始皇帝が天下を統一しました。この秦という国は刑名主義をとったのです。独裁国家でありました。これを批判したのが孔子の学統を継いだ儒家でありましたので、憤慨した始皇帝が儒者を穴にうめ、儒教の本を焼いてしまいました。いわゆる焚書坑儒で、批判者を抹殺したのであります。しかし不思議なもので、独裁体制は20年くらいで滅びるようで、漢の高祖が出てまいりまして、秦を倒しました。これが206年のことですから、秦統一以来わずか15年だったのです。高校の漢文覇王別姫とか鴻門の会のお話はこのころの物語です。
かくして漢は封建、郡県をあわせた形で天下を治めましたが、30年40年を経過しますと、表面的には平穏のようですが、外も内も大変でした。外では匈奴、外夷が漢を伺っております。内部的にはとにかく平穏が続いておりますと、政治、社会全体が弛んでまいります。女の子は男装し、男の子は女装し、音楽は古典を捨てて急調子なものが流行し、親が子を殺し、子が親を殺す。こんな事件が連発するようになりました。歴史家は、これは大変である「これ常態にあらざるなり」といっております。しかし、政(まつりごと)にたずさわるものは一党一流の利益のみを考えて、わが党のために利益をもたらすものこそ功績のあるものだと考えました。これが漢帝国成立七十年ころの国情でした。
漢の武帝はこの様子を憂えて、当時すでに五経博士になっておりました董仲舒という学者に、どうしたら風俗を正し、国を救うことができるかと尋ねたのです。その時は董仲舒の答えは、経済でも軍事でもなく、教育でなくてはならぬというものでした。「民生の安定を得ないのは、人が徒党を組んで功利にはしり、天下万民を忘れたからである。これを救うのは教育者以外にはない。誼(義)を正しく行い、利益のためには動かない。道を明らかにして、自分の功のためには行わないと
「それ仁人はその誼しきを正しくしてその利を誼らず。その道を明らかにしてその功を計らず」とこう申したのであります。正誼明道とはこの意味であります。
安岡正篤先生は今82歳。東洋学の碩学です。安岡先生がご自分でおっしゃったことはありませんが、日本の史家は誰でも書いておりますので、そのことを付け加えておきましょう。
終戦の時に迫水内閣書記官長が終戦の勅語の草案を書いたとのことですが、迫水氏はこの草案を安岡先生におみせしたそうです。この時先生は終戦の眼目として「万世のために太平に開く」ということばを入れられ、これが閣議を通ってご承知の勅語となりました。日本の平和主義、これだけの説明ではどうも不十分ですけれども、とにかくわが国が積極的に平和主義を宣したのはこの終戦の勅語からであったといえましょう。
正誼明道碑の精神は東洋における教学の中心である。このことを、この碑を見るたびに心に刻みたいものと思います。
道場箴規(どうじょうしんき)
道場箴規はもと名古屋高商の柔道部に掲げられていたものです。昭和11年か12年か正確ではありませんが、当時名高商柔道部の先輩であられた力富阡蔵氏が、柔道部のために起草され、これがたたみ一畳ほどの板に書かれていました。その後戦争がありまして、この箴規はどこかに失われてしまいました。名古屋大学の柔道部がこれを受けつぐべきだと思いますが、そういうこともなかったようです。
わたくしはたまたまこの文章を知っており、また感銘を受けておりましたので、力富氏に許可を得て書家桃邨橋詰文雄氏に依頼して、半切扁額に仕立てて校長室に飾りました。創立の時の入学生諸君に一度だけこの箴規を読み、簡単な解説も行いました。しかしその後は別にこれに触れたことはありませんでした。ところが一学期の終りごろ剣道場にまいりましたら、誰か剣道部の生徒でしょう、チョークで箴規が書いてあります。
聞いてみますと毎日朗読しているとのことです。二学期になりますと、剣道部の生徒、滝藤君、猪子君が来まして校長室の額を道場の方に戴きたいとのことです。承知はしたのですが、あとに掲げるものがありませんので、そのまま校長室に置いておりました。
11月、遠足が行われることになって、わたくしも一緒にまいりました。そのバスの中でのことです。例のように、バスガイドがマイクをみんなにまわし、合唱などしていたのです。マイクが滝藤君のところへ廻りました。この時滝藤君はマイクはいらないと言ってから、
「道場箴規を読むゾ」
と絶叫しました。大きな声でしたから、マイクがあったら破れていたかも知れません。それから「ひとッ!忍苦精進……」と読みはじめたのです。その読み方は、読み方といういい方には合いません。肺肝からほとばしり出る絶叫であったとしか言いようがありませんでした。何を言っているのか、速くてわからぬほどでしたが、わたくしはその読み方の中に青年の気力といったものを認めました。
そして、12月24日の終業式です。先生方のお骨折りのあったことはもちろんですが、生徒諸君も全員箴規を暗誦しておったのです。式辞のあとで、生徒会長でもあった滝藤君がリードをして箴規の朗読をしてくれました。270名の生徒諸君、先
生方が柔剣道場を式場として、校歌を唱い箴規を朗読したのです。これから箴規が、ことあるごとに朗読されることとなり、教室にも掲げられました。
わたくしはこの箴規の精神がくりかえし繰りかえし朗読されることによって血となり肉となり、卒業後も、あるいは社会に立って風雪の中をつき進む時も、諸君の魂の糧となってほしいと思うのです。